Mag-log in日立みやびは夫との結婚記念日を祝うため、彼の好物を食卓に並べて帰宅を待っていた。
しかし彼は深夜になっても帰ってはこなかった。
エビもチキンも湯気一つ立たないほど冷めて硬くなり、記念日だからと奮発したケーキはクリームが溶けて崩れかけている。
みやびは虚しい気持ちで誰も手をつける人のいない食卓を眺めていた。
やがて深夜も過ぎた頃、夫は初恋を大事そうに抱えて帰ってきた。
恋愛小説に出てくる”普通の”妻ならば大いにショックを受ける定番シーンだが、何しろみやびは普通ではない。
夫の車が帰ってくると同時に玄関に駆けつけ、眠っている史緒里を抱き上げた彼のために扉を開けてやった。
「おおおおおお、おかえりなさい」
声が震えたのは喜びのせいだったが、夫はこれをヤキモチによる怒りだと思ったらしい。
「俺が客を連れてくることに、何か文句が?」
「なななななな、ないです、これっぽっちもないです、ヒャッホイ!」
「ふん」
この夫――日立祐市は見事にご期待通りの”恋愛小説によく出てくるクソ夫”そのものである。
妻のことは身分も才もない女だと見下して家政婦扱い。
祖母に取り入って無理やり自分と結婚した計算高い女だと決めつけて罵る。
自分の友人たちが妻を軽んじても庇うことすらせず、むしろ加担する。
恋愛小説で見かけるモラハラ三連コンボをフルコンプ、それが祐市という男。
彼は”初恋”を大事そうに抱えたまま、不機嫌そうな声をみやびに向けた。
「彼女は帰国したばかりでいくところがない。しばらく家に泊めるからな」
みやび大歓喜。
「きた、きた、キタァァぁ! きましたよ!」
「何か文句が?」
「いいえ、何も文句などありません! すでに用意は整ってございます、どうぞ主寝室へっ!」
祐市、クズだが常識がないわけじゃない。
「なんで主寝室? 俺はどこで寝ろと?」
「そんなの、ご一緒に寝ればよろしいじゃないですかぁ!」
「彼女とは君が思うような関係じゃ……」
「わかってます、わかってますとも! 清らかな関係ってやつですよね、だけどっ! おそらく海外で不治の病を得て余命わずかとか、うつ病で常時監視していないと何をするかわからない状態とか、そういう設定があるんでしょ、床を共にしなくても、少なくとも同じ部屋で寝るべきじゃありません?」
「ちょっと落ち着け、お前、今日はめちゃくちゃ喋るな?」
祐市は今まで、みやびはおとなしい女なのだと思っていた。
みやびは表向きは”霞ヶ浦警備保障の事務員”を名乗っているが、それを信じ込んでいる祐市は、彼女をいかにも事務職に向いた化粧っ気もなく地味で寡黙な女だと勝手に思い込んでいたのだ。
余計なことは一切喋らず、祐市の友人や使用人に舐めた口をきかれても穏やかに笑ってそれを受け流す、そんな物静かな女――あれは幻だったのだろうか。
「あっあっあっ、ところで、ここに結婚記念日のご馳走があるんですが、こういうの重いとか、うざいとか、なんかとびきりクソっぽいコメントいただけたりしませんかね?」
「本当、ちょっと落ち着こう、な?」
祐市は咳払いをしてから、ピシッと命令口調で言った。
「彼女は客人だ、客室の用意を……」
祐市の腕の中で寝たふりをしていた史緒里は、これを聞いて大いに焦った。
(待って待って、奥さんが主寝室でいいって言ってるのに、なんでわざわざ客室に入れられるわけ?)
史緒里は、まるで今目が冷めましたよ〜みたいな雰囲気で、モゾモゾとみじろぎした。
「う〜ん、祐市?」
「起きてしまったのか、すまん、うるさかったな」
「ふふ、いいの、なんの話をしていたの?」
「君をどの部屋に泊めるかという話だ」
祐市の腕の中から下ろされた史緒里は、わざとらしく大きくよろめいた。
「ああっ!」
「大丈夫か! 気をつけろよ、君は胃がんの手術を受けたばかりだろう」
このやりとりにみやびは再び大興奮。
「胃がん! 王道! まさに!」
祐市がこれを嗜める。
「病気をおふざけのネタにするんじゃない!」
それは確かに。
祐市はクズだが常識はある男だ。
だが、間違い無くクズではある。
彼は史緒里の手を引いて、彼女を食卓に座らせた。
「ちょうど食事ができている、空腹は胃に悪いだろうから、何かお食べ」
妻が一生懸命作った記念日のご馳走に労いの言葉をかけるでもなく、あまつさえそれを他の女に平然と食わせようとする心遣いのなさ、まさにクズである。
「胃に優しいものがいいな、これはエビか、あとは豚の角煮に、鶏の唐揚げ……重たいものばっかりだな」
確かに胃には重たい料理ばかりだが、全て祐市の好物なのだが。
「お前は病人に対する気遣いが足りない、こういう時は粥を出すべきだろう」
急に連れてきた”病人”に対して事前に気配りをしておけと言い出す理不尽。
「そうだ、粥がいい、薬膳がゆを作ってやれ」
こんな真夜中に手間のかかる料理をさせようとする横暴。
間違いなくクズである。
そしてそんな夫に抱きつくようにして座って入り彼の初恋、こちらの恋愛小説でよく見かけるタイプのクズである。
「ええー、いくら使用人の方とはいえ、こんな時間にお仕事させるのは申し訳ないわ〜」
わかっていながらわざと使用人扱い。
「使用人ではない、妻だ」
「え、わあ、ごめんなさい、祐市の好みとは真逆の地味……清楚な方だから、わかんなかった〜」
言いかけていた”地味”という言葉を”清楚”に置き換えるさりげない嫌味。
間違いなくクズ女だ。
だがそれはみやびにとっては何よりも上質な燃料でしかない。
「粥! 定番です、粥! 手渡すときにちょっとペチャッとはねて、『キャ、熱ぅい、でもわざとじゃないのよね、許してあげて』するための小道具ですね!」
祐市は呆れ顔。
「さっきから何を言っているんだ、お前は」
「いいですか、祐市さん、そういう時に本当に許しちゃダメですからね、『こいつは性根の腐った女だ、わざとに決まっている』とか言って、罰として粥を百杯かけるまでが様式美ですよ!」
「いいから落ち着け、本当に落ち着け」
「あ、はい」
流石に騒ぎすぎだったと気づいたみやびは興奮を消して、スッと無表情になった。
「薬膳粥を作れとのことですが、あれは前日からの仕込みが必要なのですぐにはお出しできません、普通のお粥でよろしいですか?」
「それならすぐにできるのか?」
「はい、残りご飯を使ってもいいならばさらに手早く……」
史緒里がみやびの言葉を遮る。
「残りご飯なんて犬の餌じゃない! この家は客に残飯を食わせるの?」
みやびが「ふー」と大きくため息をついた。
「ダメですね、全然ダメダメです」
「何がダメなのよ」
「そこはあくまでもか弱く!」
みやびは眉尻を思いっきり下げ、よよと崩れ落ちて見せた。
「私のことが迷惑なのね、だから残飯なんか食べさせようとするんだわ、いいの、祐市さん、やっぱり私は出て行くわ」
その哀れな姿に、祐市は思わず両手を差し出して助け起こしそうになる。
しかしその手が届くよりも早く、みやびはぴょんと垂直に飛んで身を起こした。
「と、こんな感じでお願いします」
差し出した手の行き場を失った祐市の心の中に、モヤモヤした得体の知れない感情が湧き上がる。
「お前がそんなに裏表がある女だとは知らなかった」
「そうでしょうね、あなたは裏どころか、表の私すら見ようとはしなかったもの」
「お前は……少しは史緒里を見習え! みろ、この表も裏もない素直な性格を!」
「表も裏もない……ふふ、裏を見ようともしないから気づかないのよ」
「どういう意味だ?」
「さあね」
一方の史緒里は、この言い争いを見守るながら、祐市の妻を名乗るこの女の正体について悩んでいた。
(どこかで見たことがあるのよね……)
実は史緒里は、影武者でありながら、みやびと似ているところは一つもない。
幼い頃から社交界で”霞ヶ浦史緒里”として振る舞うだけの、いわゆる身分を入れ替えるタイプの影武者であるから、容姿や体格などは重要視されなかったのだ。
さらに、みやびと史緒里が引き合わされたのは幼い頃の一度きり。
みやびの方は社交界で派手に動き回る史緒里のことをよく知っているが、史緒里の方は地味な一事務員として振る舞うみやびの動向をいっさい知らない。
だから「見たことある気はするんだけど、どこでだったかなー」と悩んでいるのだ。
みやびはこの場を収めるべく、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。
史緒里も思考を遮られて、はっと顔をあげる。
「さて、話を戻しましょう、ここでまず決めるべきなのは、史緒里さんをどの部屋に泊めるかということですね」
祐市が「はい!」と手を挙げる。
「お前の部屋はどうだ、しばらく俺とお前が主寝室で寝れば問題ない」
「さすがはクズだけど常識はある男ですね〜、だけど私の部屋は物置です、お客様にお貸しするような場所じゃありません」
「物置だと! 誰がそんなことを!」
「誰でしょうねー、ま、それは今、問題じゃありません」
史緒里が「はい!」と手を挙げる。
「私は客室に泊まります、いきなり主寝室に止めてもらうって、ちょっと違うなって思うんです、まずは客室から攻めて行きたいとおもいます」
「なるほど、“いまは”客室でいいわってことですね。この先の野望が存分に含まれていてとても良いとおもいます、すぐに客室をご用意いたしましょう」
みやびは客室を整えるために部屋を出ていった。
その足取りは後ろから見てもわかるほど浮かれていて、軽くスキップを踏んじゃったりしていた。
リビングに取り残された祐市と史緒里は――
史緒里がそっと祐市にすり寄る。
彼はそれを押し返すこともなく、むしろ肩を抱き寄せて恋人のような距離感で寄り添った。
「あれが俺の妻だ」
「祐市、本当に結婚しちゃったんだね」
「俺の意思じゃない、ばあさんが勝手に連れてきた嫁だ」
「じゃあ、離婚とか、しちゃう?」
「あー、そうしたいんだがなあ、そう簡単にいかないんだ、これが」
祐市は史緒里を抱き寄せたままで、ソファにどさっと身を投げ出した。
高級な革ソファの上で、男女二人に体はより深く密着する。
「祐市」
史緒里は彼のネクタイを緩めようとした。
だがクズだが常識のある祐市はそれを許さなかった。
「俺は既婚者だ、今はまだ、こういうのはまずい」
「えー、じゃあ早く離婚しちゃってよ」
「それなんだがな、婆さんが手を回したせいで、俺の持ち株は全て夫婦共有の財産になっている。もしも離婚するときはその株の全てが彼女のものになるという条件付きだ」
「離婚させないための保険ってことね、なんて腹黒い女かしら!」
「ん、その腹黒い女ってばあさん? それともみやび?」
「やっ、やあね、あなたのおばあさまを悪く言うわけがないでしょ、みやびよ、みやび!」
「だけど、みやびに俺の資産をどうこうする権力はないだろ、だから、取り決めをしたのはばあさん……」
「ああっと、祐市、キスしよ、キス! キスくらいならOKでしょ!」
「そうだな……キスくらいなら」
史緒里はさっそく祐市の首に両手を回し、唇を重ねた。
そのまま舌を差し出し、からめとり、まるで祐市の思考を食らい尽くそうとするかのようにキスを深めてゆく。
彼女の体から立ち上る甘い香りと官能に翻弄され、祐市はうっとりと目を閉じた。
史緒里の方は、祐市を舌使いだけでを翻弄しながらも目をカッとかっぴらいたいたままで、みやびをいかに始末しようかという策略を巡らせていた。
(そもそも。”みやび”って名前が気に食わないわ。見窄らしかった頃の私と同じ名前なんて)
みやびという名前は特に珍しいものではない。
だから彼女は、相手は単なる同名だろうと考えていた。
(”宮坂みやび”、あの名前を名乗っていた頃の私は、不幸だった)
ここで、人並外れて貧乏な家だったとか、人から見下されて育ったとかいうエピソードがあれば、より恋愛小説っぽかったのだが、もちろんそんなものは一つもない。
彼女は普通の一般家庭に育ち、裕福ではないがきちんと養育された子供であった。
わかりやすくいうと、両親は公務員、持ち家あり、年に2回は家族旅行に行ける程度の経済状況。
彼女のいう”見窄らしい”は、お嬢様として扱われる今の状況と比較して、ということだ。
彼女が身代わりに選ばれたのは小学四年生の時、まず与えられたのは霞ヶ浦家の令嬢に相応しい色とりどりのドレスだった。
それまで量販店で買ったキャラクターがプリントされたトレーナーばかり着ていたのが、いきなりプリンセスみたいなひらひらキラキラのドレスを着せられのだからテンションが上がるのは当たり前。
彼女の勘違いはここから始まった。
家は普通の住宅が三つも四つも入るほどの大豪邸、使用人たちに貸しづかれ、食事はいつでもフルコースみたいな生活に比べれば、きちんと倹しい庶民の生活なんて”見窄らしい”と思って当たり前。
さらにタチの悪いことに、彼女は”影武者”であるということをよく理解していなかった。
彼女は本物の”霞ヶ浦史緒里”はなんらかの理由で行方不明になっており、自分はその穴埋めのために迎えられた養子なのだと、本気でそう思い込んだのである。
この辺、みやびならば「あるある、恋愛小説でそういうのよく見る」と納得するだろう。
だから彼女は”霞ヶ浦史緒里”の立場を奪うことに躊躇はなかった。
霞ヶ浦家のお嬢様として傲慢に振る舞い、欲しいものはなんでも手に入れて自由気ままに生きてきた。
だからこそ”見窄らしい”自分を思い出させる”みやび”という名の女に、必要以上の不快感を抱いたのだ。
(さあ、どうやってあの女を排除しようかしら)
口付けの合間にニヤリと口角を上げて笑う史緒里の顔は、まさに悪女そのもの。
そう、この女、恋愛小説でよく見る”儚いふりをして夫を奪う系悪女”そのものなのである。
ただし祐市と違って常識はない。
それどころか倫理観も情け容赦もない。
(最悪、死んでもらうってのも手よね)
だがそれはあくまでも最終手段である。
彼女がまず最初に手をつけたのは祐市の母親、つまり義母の籠絡。
親から圧をかけさせて穏便に離婚させようという、まだかなり情けある作戦から始めたわけである。
二人が最初に向かったのは、もちろん半蔵門。早速あやめが講義を始める。「ここが半蔵門、半蔵率いる伊賀同心組の屋敷がこの近くにあり、彼らが警備を担当したというのがその名の由来だと言われています」「ハンゾー、シッテル! ハットリハンゾー! ブンシンノジュツ!」「実際の忍者は分身しません」「じゃあ、ヘンゲ!」「私自身もオタクなので創作物の中の忍者を否定するつもりはありませんが、実際の忍者と創作の忍者は別物です。物理法則や常識を凌駕するような術は、創作物の中だけの話です」「ホンモノニンジャ、ヨワイ?」「弱くはありませんね、彼らがこの門の警護を任され、家康公からの信頼を得ていたのは、有事の際に彼の身を守ることができるプロ集団だったからです」「ケービイン! タタカったことあります、シオリ、ツヨい」「そのシオリさんという方のことは存じ上げないのですが、まあ、そうですね、情報戦に強いエリート警備員だと思えばいいです、普段は城下で情報収集や、諜報を行い、陰ながら江戸の平和を守っていたわけですよ」「おう、キリコさん!」「その方のことも存じ上げないのですが、まあ、なんとなく把握しました。ネットで言ってましたものね、“ニンジャを見た”って」「スィ、ニンジャはいまもイル」「その話は後ほど、その前に、この半蔵門の説明をしますね。ここは江戸城の裏門、正確には“搦手門”というのですが、有事の際には城内からこの門を使って脱出して、こっち、見えます、ここ?」あやめが指さしたのは甲州街道。今ではなんの変哲もない道である。「この甲州街道を通って甲府城まで家康公を無事に送り届ける、そのために伊賀衆がここに配置されていたと言われています。簡単にいうと江戸城のバックドアの門番ですね」「セキュリティ、シオリさんとオナジ」「そうなんですね。さて、それはさておき、今日はこの甲州街道を辿って、半蔵ゆかりの地を巡りますよ」甲州街道を並んで歩きながら、あやめは解説を続ける。「創作物では“服部半蔵”が本名であるかのように語られていますが、今話しているのは服部半蔵正就、つまり“3代目服部半蔵”のことなんですよ」「サンダイメ? ハンゾー、いっぱいいた?」「いっぱいはいませんけど、正就はお父さんから“服部半蔵”の名前をついだんですよね、つまり個人名じゃなくて役職名みたいな感覚でしょうか
これは、マフィアでありながら日本のサブカルチャーをこよなく愛する男、ジョバンニの物語である。ある土曜日の朝早く、ジョバンニはシャドーストライプの入ったダークカラーなスーツをピシッと着込んで、ボルサリーノを粋にキメ、イカす靴を履いて、すっかり正統派マフィアスタイルで出かけようとしていた。仲間たちがこれを見て囃し立てる。『なんだ、ジョバンニ、デートか?』ジョバンニは至極真面目な顔でこれに答えた。『いや、フィールドワークだ』『なんの』『もちろん、ニンジャの』『お前は……時々意味不明だな』ジョバンニのルームメイトであるルカが補足に入る。『あー、ジョバンニのやつ、今はニンジャにハマっててさ、毎晩ネットで、歴史に詳しい人とやりとりしてるんだよ』ジョバンニが誇らしげに頷く。『スィ、"オシショーサン"。フィクションの忍者にも、歴史の忍者にも詳しいセンセイ』なるほど、つまり、オフ会である。『どんな人だよ、オシショーサンって』『知らない、けれどイメージはある』ジョバンニは、うっとりと目を細めて、オシショーサンの姿を幻の中に思い浮かべる。『オシショーサンは博識、質問すると丁寧な長文回答をくれる。ネットの文章は礼儀正しくて古風。忍者の血を引く老師みたいな人』『なぜそう思った』『名前、オシショーサン、“千葉の滝夜叉丸”』『なるほど……?』それはネットでの通り名であって、多分本名には掠ってもいないと思うのだが……だが、ジョバンニの勘違いは止まらない。『オシショーサンはきっと年上の方、ならばこちらも、礼儀を尽くした格好でお会いせねば』『そうか、まあ、頑張れよ』待ち合わせ場所は半蔵門駅改札口。駅名を見ただけで、もう、ジョバンニ大興奮。『ハンゾー! ハットリハンゾー! ニンジャキング!』だがすぐに、敬愛するオシショーサンにみっともない姿を見せるわけにはいかないと、キリッと表情を引き締め直す。『礼儀とワビサビ、ニホンのココロ』ボルサリーノをちょいと整えて辺りを見回せば、ちょうど改札を通る一人のご老人が。『マンマミーア! 想像した通り、オシショーサン、老師!』その老人は長い白髪を後ろでキュッと一つに結んで、顎にはこれまた真っ白な山羊髭をフッサアと生やした——ありていに言えばカンフー映画に出てくる“老師”みたいな風体をしている。実はジョバ
某日、霞ヶ浦警備保障の通常訓練でのこと。指導官がみんなの前に、とてつもなく顔のいい御曹司を連れてきた。「あー、彼は……とりあえずバイトで入った日立祐市くんだ。実際の業務に関わるというよりは、自己鍛錬のために来たらしくてな……」指導官は困惑顔だが、祐市は堂々としたもの。「日立祐市だ、財力でここにねじ込んでみた、よろしく頼む」居並ぶ霞ヶ浦警備保障通常警備員たちは、その全員が反応に困ってオロオロと身を揺らす。「あの、指導官、彼は……」「ああ、お坊ちゃんがちょっとハードなエクササイズ気分でやってきた、みたいなアレだな。だが安心しろ、彼には特別指導員をつけてある、君達の訓練に影響を及ぼすことはない……はずだ!」特別指導員としてやってきたのはあの男――爽介だ。彼は現役のエージェントであり、その肉体は無駄を一切削ぎ落とした形で鍛え上げられている。表情も凛々しく、立ち姿にも安定感がある彼は、犬で例えるならばシェパードといったところか。爽介の前で一丁前にピシッと姿勢を正して立つ祐市は、犬に例えるなら柴犬……「いいえ、あれは豆柴よね、みて、強さが一切感じ取れない……」「わかるわ、うちの実家の犬に似てる。本人だけは凛々しいつもりだけど、可愛さしかないあれよね」女性隊員たちの囁き声に気づかず、祐市はますます胸を張る。「俺は史緒里を守れるくらい強くなりたいんだ、ぜひ、厳しく、頼む」無理筋がすぎる。爽介は呆れて首を振った。「まあそれは、おいおいということで……まずは基礎訓練からな」しかしこの豆柴、魂は狼(のつもり)である。不服そうに鼻を鳴らして抗議する。「いや、実戦形式で頼む。俺は1日も早く、史緒里を救いに行きたいんだ」「うっわ、扱いずっら」ここで指導官が助け舟。「どの程度の“実戦”を組めばいいのか、まずは君の力を見極める必要がある、そのための基礎訓練だよ」「なるほど、一理ある」まずは腕立て伏せから。祐市は張り切って両手を大地につけた。「いーち!」「ふっ、余裕だな」「にーい!」「まだだ、まだいける!」「さーん!」「くっ、ここを……乗り越えれば……!」祐市の両腕はすでにプルプルと震えている。だが表情は凛々しく、キリッと前を向いて。イケメンゆえに、額にびっしり浮かんだ汗が流れ落ちるのが、まるでアクション映画の主人公であるかの
戦い済んで――戦士たちには平穏な日常が戻ってきた。VIP病室には茜色の夕日が差し込んでいる。清潔なベッドには、静かな寝息を立てる祐市。ベッドの傍らに立つ史緒里は、祐市の穏やかな寝顔に、そっと手を伸ばした。「祐市さん……」無事を祈って震える声。心配して泣き腫らした目元。まるで重症者に対する振る舞いだが、実際には祐市は“念のため”に受けさせられた精密検査で疲れて眠っているだけだ。そもそも鬼神もかくやという史緒里がそばについていながら、怪我などさせるわけがない。祐市は幸せそうに微笑んで、むにゃむにゃと寝言を言った。「史緒里、結婚式をやり直そう、君の存在を公に発表するんだ……」その破壊力に、史緒里がズシャァと膝から崩れ落ちる。「ああっ、祐市さん、こんな時まで恋愛小説のクズ男っぽいなんて! わかります、わかりますよ、とりあえず結婚式を約束すれば、女はおとなしく納得してくれると思い込んでいる傲慢御曹司系クズ男のセリフです、それ! しかも寝言で本音が漏れる王道演出! 神ですか、あなたはクズ男の神なんですか!」床の上で身をくねらせてしばし悶絶した後、史緒里はすっと立ち上がった。その表情には、すでに冷静さが戻ってきている。「でもね、祐市さん、クズ男の結婚の約束って、反故になるのがセオリーなんです。愛人の妨害にあったり、奥さんがクズさに見切りをつけて失踪したり……だからそのセリフ、フラグなんです」言ってることはこれっぽっちも冷静ではないが。史緒里は親指で祐市の唇に触れ、その形をなぞった。「だから、そのフラグ、回収しますね、お別れです」史緒里は親指をどけ、彼の形良い唇に自分の唇を重ねた。寝息を舐めるような、静かなキス。まるで時間が止まってしまったかのような、ただ静かな口付け。やがて、名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、史緒里はさみしく笑った。「私、行きますね」祐市を守るため、五霞を潰しに――「どうか、普通の幸せを……」それは自分では彼に与えられないものだと、史緒里は知っている。なぜなら彼女が進む先は、いつだって“戦場”なのだから。くるりと背中を向けた彼女は、もう、振り返りはしなかった。それから2時間経って――VIP病室の清潔なベッドの上で目を覚ました祐市は、得体の知れない不安に脈打つ自分の胸を、強く押さえた。なぜだろう。と
その頃ヘリの中では、真理恵が厳しい顔で海を見下ろしていた。果てない大海原のど真ん中に寄る辺なく浮かんだ船は、周りの海水を巻き込んで大きな渦を作り出しながら海中に引きずり込まれてゆく。操縦士が叫ぶ。「真理恵さん、帰還しましょう、残念ですがこの状況ではもう……」「まだよ!」真理恵の横顔は青ざめているが、その瞳にはまだ諦めきれない希望の光が強く灯っていた。「しおちゃんがこの程度でやられるわけがないでしょ……」鬼心流の後継者として修行する史緒里の姿を長年見守ってきた彼女は知っている。装備も無しに山中でサバイバルさせられたり、酸素ボンベもなしに大海原に投げ出されたり、人体のポテンシャルを最大限まで引き出しさらなる高みを目指すその修行は、もはや“ほぼ人体改造”の域にある。あの修行を耐え抜いた彼女ならばワンチャンあるのではないかと。思ってはいるのだが……「なんでこんなに待機組がいるの!」上空にはヘリが7機。うち3機は史緒里の生還を信じる真理恵が待機させた霞ヶ浦警備保障のものである。さらに追加で飛んでいる3機の霞ヶ浦警備保障機は、貴理子が指揮を執る“空飛ぶ情報統制室”こと各種ソナーおよびデジタル機器を搭載した探索機。「この距離なら生体反応を直接観測できるでしょ! 少しでも反応があったら即データ化、私に送って!」「頼りがいあるけど邪魔ぁ! この狭い空域になんでこんなにヘリがいるの!」さらにもう一機は今回の協力団体であるヴィリオットファミリーのプライベート機。ハッチを大きく開けたキョースケは、痛ましく震える声で「フラテッロ……」と囁き、献花を海に投げた。その隣ではジョバンニが「ニンジャガール……」と、これも悲痛な表情で“心臓を捧げよポーズ”をとっている。「早い早い早い、諦めよすぎ! あとそっちのオタク、その敬礼はニンジャ関係ないから!」そして波間には爽介が凄腕テクで操縦する一隻の高速艇。海上にいくつも浮かぶ渦の間をすり抜けながら、拡声器で声を響かせる。「しおちゃん、お兄ちゃんが助けに来たぞ!」「危険海域を疾走しないで! あとお兄ちゃん設定、まだ引っ張るのやめて!」真理恵が果てしないツッコミに疲れ切ったその時、海上にポツリと黒い点が浮かび上がった。「しおちゃん! 早く、網を下ろしてあげて、早く!」それを合図に、7機のヘリが救助用の網
祐市を拘束して銃を突きつけることには成功した五霞だったが、精神的にはすでに疲弊し始めていた。なにしろこの男、銃を突きつけられているというのに一切怯えの色がない。それだけではなく、ペラペラと喋くって交渉を続けている始末だ。この状況なのに、命乞いでも説得でもなく、“交渉”を!「つまり、俺を殺し、日立の本家を乗っ取り、その資金で軍需産業の世界に参入したいと、そういうことだな」「そうだ、すでにコネクションも作ってある、あと必要なのは資金! 資金なんだよ!」「ならば事業計画書を提出してくれ、その内容次第では投資をしてやろう、正当な商取引というわけだ」「そんなまどろっこしいことしなくても、日立家の資産を自由に使える立場になれば、手っ取り早いだろ」「一理ある。しかし軍需産業への参入はリスクマネジメントの観点から、お勧めしない。クリーンな企業であるという我がグループのイメージが損なわれた場合、一般消費者の購買意欲や、既存の取引先との関係性の変化などの損失は計り知れない。かつ、新たなノウハウの取得やマニュアルの構築など、専門家を招聘する必要もある」「しゃらくせえ! ビジネスの話をしてるんじゃねえんだよ!」「そうか、では別の側面から話をしよう、実は俺、もうすぐ父親になるんだ」「な、なんの話だ?」「生まれてくる子が幸せであるように……そして世界中の子供達が幸せであるように……ラブ・アンド・ピース、戦争などという不幸の種に金を出したくはない」「立派ぁ! 理念は立派ぁ! だけど今の状況を理解して!」五霞の情緒はジェットコースター状態。上げられたり下げられたり、振り回されてもうぐちゃぐちゃ。「まずはステップワン、いまお前は人質なの! 俺はお前を餌に、あの恐ろしい女を誘き出してなぶり殺しにしようと思ってるの!」「なるほど、悪人だな」「いいね、ようやく俺が悪人だと気付いたのか。じゃあステップツー、俺はお前らを巻き添えにして自爆する覚悟、だから船を爆破した、もうすぐこの船は沈む、タイムリミットは……あと10分ってところかな」「いや、君はこの船と命運を共にする気はないはずだ、なぜなら、日立家の財産を手に入れても死んでしまったら使えないからな、だから脱出経路なり安全装置がどこかにあるはずだ」「無駄に鋭い推理! なんなの! 天才なの? バカなの? ほんとちょっと、
日立みやびは恋愛小説でよくみる、いわゆる”虐げられた妻”である。みやびの嫁ぎ先である日立家は由緒正しい大財閥であり、義母はそこに入り込んだ”庶民”である嫁を嫌い抜いている。気まぐれに嫁を呼びつけて雑用や宴の下働きを押し付けるなんて日常茶飯事、口を開けば嫌味ばかり、時には”家訓”と称して体罰を与えることもある。夫――日立祐市(ひたちゆういち)は祖母がどこかから拾ってきた”庶民の嫁”であるみやびを恥ずかしく思っている。当然結婚式などは挙げていないし、世間に結婚を公表することもない。「俺には初恋の女がいる」と言って憚らず、みやびのことを都合の良い家政婦であるかのように扱う、まさにお手本通







